ここから本文です。
更新日:2021年11月29日
(13)長野県西部地震(昭和59年9月14日)
被害地域
木曽郡(特に王滝村)
被害状況
人的被害(人):死者29/負傷10
住家被害(棟):全壊14/半壊73/一部損壊517
まさか王滝にあんな大きな地震があるなんて
木曽郡王滝村T.Sさん(当時60歳・婦人会長)
ちょうど主人が朝風呂から出て朝ご飯にしようか、と言っていたときでした。突然、ドーンと下から突き上げるような地震があったのは。そして少し間をおいて、物が落ちてきました。それはもう靴をはかなければ歩けないほどでした。念のため食料や電池を用意しておこうと行った近くの商店も、店内は商品でめちゃめちゃでした。自宅はおかげさまでお風呂場など多少亀裂は入りましたが、大きな被害はありませんでした。
ああいった緊急事態にはデマが飛ぶものです。東京が全滅らしいという話を聞いたかと思うと、しばらくして甲府が震源地だ、今度は長野だ、と…。上流にあるダムが決壊したから逃げろというデマも流れました。そういうときこそ確実な情報が欲しいのに、このときばかりはなかなか正確な情報が行き渡りませんでした。
また、誰もが自分たちの村が震源地だとは思っていなかったのです。王滝村は昭和54年に御嶽山が爆発しています。その前後に群発地震があったので、多少揺れても「あ、あったね」といった具合。ある意味、みんなが慣れっこになっていたかもしれません。ここは岩盤が強固だから、地震はあっても西部地震のような大きな地震はないと思い込んでいたのです。地域によって被害の差があったのも、事の重大さの認識を遅らせる原因になったかもしれません。
地震があってすぐ、用水路を見たらドロドロの水が流れていました。アッと思って水道をひねったら水が出ない。ついこの間まで一升瓶2本に水を備蓄していたのに、そのときに限って捨ててしまったのです。何かあっても、こんなに水が豊富な所は困ることはないと思って…。本当に後悔しました。
王滝が震源地だとわかってからは、郡内の町村から救援物資が届いたり、自衛隊がきてくれたりで本当に助かりました。木曽福島町からは、翌日が敬老の日だったので、そのために用意した料理を分けていただきました。全国から衣類はもちろん、リンゴや魚などたくさん送ってもらったおかげで、食べ物に困ることはありませんでした。一番困ったのはやはり水でした。婦人会としても何かできることはないかと村に聞いたところ、自衛隊のお昼を、ということになり毎日100食くらいでしょうか、おにぎりをつくりました。通算3,450食でした。あれだけの捜索は自衛隊じゃないとできないというほど一生懸命やってもらい、みんな感謝していました。
避難生活を続けながらも、日中は自宅のかたづけをする人もいました。当時は区長をやっていたので、主人と私は区のことで精一杯。1か月くらいは家のかたづけどころではありませんでした。また、毎日届く救援物資の仕訳などは女性中心にみんなで協力してやりました。
この地震ではいろいろなことを経験しましたが、普段のコミュニケーションの大切さを痛感しました。区長をしていたおかげで、いろいろな人と接する機会が多かったもの幸いしたと思います。普段の声のかけ合い、何か困ったら遠慮せずに言える、そんな近所づきあいは大切だと思います。
地震の1年後には、復興記念祭をやりました。そのとき、村の全戸に避難用のリュックが配られました。今でも水、氷砂糖、乾パン、タオルや紐、新聞紙などを入れています。名古屋市からいただいた20リットルのポリタンクにはちゃんと水を入れてあります。いざというときは、自分のことだけでなく皆が便利なようにしておくことも大事だと思います。
教訓
伝えたいこと
情報不足の中でデマが飛び交った。
◆水が豊富だと思って備蓄していなかった。タオル、紐や新聞紙は用意しておくと便利。
九死に一生、命の大切さを痛感
木曽郡王滝村M.Mさん(当時57歳・民宿経営)
その日は朝から雨が降っていました。うちは民宿をやっているんですが、前日に宿泊客も帰ったので今日は少しゆっくりできるなと思いながら朝の連続ドラマを見て、主人と朝ご飯を済ませました。そこへ電話があり、私はいつもより長電話を、主人は仕事に出かけるところで、トイレに立ったときでした。“ゴーッ”という何とも言えない音がしたかと思うと、いきなり下から突き上げるように“ドーン”という衝撃。「何だろう、どうしたんだろう」。何が起こったのかとっさにはわかりませんでした。額ぶちや神棚の飾りなどが目の前に飛び散りました。と思ったとたん、家具などがザーッと落ちていくのが見えました。瞬間的に死ぬかもしれない、と思いました。
記憶があるのはそこまでです。どれくらいの時間がたったのでしょう、ゆらゆらと船に揺られるような感じで目が覚めました。もしかしたら、崩れ落ちた道路際で必死に私を呼ぶ主人の声で気づいたのかもしれません。ぼんやりと、「ああ、主人は生きているんだな、私も生きている…」と思いました。私の周りにあるのはがれきと土砂の山。地震の衝撃で家は4分の1を残して土砂崩れに巻き込まれ、私は家もろとも流されてしまったのでした。
おでこのあたりから血は流れていましたが、手も足もついていましたし、動かすこともできました。はるか上にいる主人が、山のほうに行けと必死に手で合図していました。余震は続いていましたし、上から岩がゴロゴロと落ちてくるので必死で山側に向かい、助けにきてくれた主人と無我夢中で山を駆け上がりました。気がつくと私は裸足、主人はトイレ用のスリッパを片方だけはいている状態でした。とにかく逃げようと、二人とも無言でただひたすら近くの公民館へ急ぎました。
公民館にはすでに何人も避難していました。どなたかの車をお借りして、中で休ませもらいました。そのとき「お前が無事で本当に良かった」という主人の言葉は覚えていますが、あとは当時のことはほとんど覚えていません。墜落現場から命からがら逃げ、主人に助けられたときの私は血の気もなく放心状態で、別人のようだったそうです。
避難場所を学校に移したときには体中が痛く、病院へ搬送してもらうことになりました。全治15日の全身打撲でした。何mも土砂と一緒に流されたのに、よくこれだけのけがですんだと神様に感謝しました。退院後、災害現場を見たときは、あまりの変わりように涙が止まりませんでした。
家を無くした私たちに、村は教員住宅を貸してくれました。東京にいた子どもや近くの親戚が取りあえずの生活用品を揃えてくれ、救援物資でいただいた服など利用できるものはすべて利用しました。昔から漢方薬も扱っていたことから、全国のお馴染みさんから“頑張って”と励ましの言葉や救援物資も送っていただきました。どれだけ元気づけられたことでしょう。そんな多くの方からの励ましで、今、こうして民宿も再建でき、主人ともども元気で頑張っていられるのです。
あれ以来、多少のことではくよくよすることもなくなりました。私にとっては忘れたくても忘れられない出来事、そして本当に命の大切さを知り、前向きに頑張れば何とかなることを学んだ出来事でした。
教訓
伝えたいこと
住宅が土地もろともなくなってしまったが、「何より大切なものは命だ」と心より実感した。
情報収集、対策、マスコミ対応など、目まぐるしい毎日の繰り返し
木曽郡王滝村H.Sさん(当時49歳・役場職員)
あの日もいつもと変わらぬ朝を迎え、登庁して書類整理をしていました。突然、轟音とともに下からゴンゴンと突き上げる大きな揺れ。同時に天井から蛍光灯は落ちてくる、塗り壁は塊でバタバタと落ちる、本や書類はもちろん、二段重ねの小さな書庫も飛んできました。「地震だ!」。とっさに「机の下にもぐれ!」と叫んでいました。気がつけば私だけが椅子に座ったまま。慌てて頭だけ突っ込んだところへ、後ろからロッカーが飛んできました。「ああ、俺の人生もここまでか」と本当に思いました。
揺れがおさまるのを待って職員を外に出しました。このとき、「今の地震は甲府で震度4」という情報が入りました。村の誰もが王滝村は地盤が強固だと思っていますから、ここが震源地だとは思いません。関東で大地震か東海地震でもあったかなどと話していたほどでした。
それにしても大きな地震だったので、被害調査のため職員を現場に向かわせました。職員から東区の崩落や県道の寸断、森林組合や生コン会社は土砂に巻き込まれたなどの情報が次つぎに入り、被害の大きさがわかったのでした。しかし、道路の寸断、泥流などの障がいで情報収集には限界がありました。御嶽山の崩落を知ったのも、テレビ局の取材ヘリからの無線連絡からでした。
電話の1回線を残してライフラインも全滅。役場の電話は無事でしたが、関係機関に連絡できないほどひっきりなしにかかってくるのは、マスコミからでした。県と村を結ぶ行政無線も当時は隣接4町村の共同無線、受話器をとっても通じません。最終的にNTTの孤立防止無線を使いましたが、あまりの情報の少なさにお叱りを受けました。初めての経験で混乱していたとはいえ、災害対策の甘さを反省しました。
地震発生から1時間弱で災害対策本部を設置。避難勧告を発したり、自衛隊の出動や隣接町村へ炊き出し要請などを行いました。避難場所はあらかじめ決めてありましたが、ひどい地震だったので避難所の安全確認が最優先でした。その日、村民は避難所で一夜を過ごしました。赤ちゃんや飼い犬の泣き声が睡眠妨害になるなど、予想外の事態も発生してしまい、こうした対応策も不可欠だと痛感しました。
次の日からは、対策会議、電話や見舞客の応対、救援物資の手配や分配など、災害対策本部が解除されるまでの約40日間、目まぐるしい毎日が続きました。私が自宅の様子を見に行けたのは地震から3日目のこと。言うまでもなく家の中は足の踏み場もない状況で、玄関ドアや窓ははずれていました。
山間の小さな村に起こった大災害。村内道路の片側はマスコミの車で埋め尽くされ、大型車は入れません。当時は無線で関係町村や県と連絡をとるのですが、報道のほうが早いこともありました。でも現場が落ち着き、マスコミも村から出ていくときには各社が挨拶に見え、「ここの村の職員は本当に一丸となって頑張っていましたね」と口々に言っていただき嬉しい気持ちになったのを覚えています。
震災から1年、私たちは犠牲者の慰霊碑を建立し、あの日を教訓に緊急用のリュックを村の全戸に配布しました。私の家でも、1年に1回ですが乾パンや缶詰を交換したり、絆創膏や懐中電灯、タオルを入れていざというときに備えています。
教訓
伝えたいこと
職場の書庫やロッカーが飛んでいった。「堅い岩盤の土地だから大丈夫」といった先入観があった。
◆狭い村内が関係車両でいっぱいになり、災害時の特に情報の発信方法に難しさを感じた。
気がついたとき、見慣れた風景は一変していた。
木曽郡王滝村M.Tさん(当時47歳・消防団長)
今から思えば、あの地震の約半年ほど前から群発地震がありました。大きな地震があるかもと思っていた人もいたようですが、私自身、王滝村は硬い岩盤の土地だからあれほどの地震があるとは思ってもいませんでした。子どもたちは学校へ行き、家内は敬老会の準備に、そして私はいつものように会社へ。
いつもと変わらない一日が始まるはずでした。が、いきなり下からドーンと持ち上げられ、またドーンと落とされたような衝撃がありました。製材機がレールからはずれたくらいです。何が起こったかわけもわからず、とっさに外に出てみると、いつも見慣れた景色は一変していました。大きな土砂崩れが起きて、そこにあったはずの営林署や生コンの会社も、そして橋も流されていたのです。
消防団長だった私は、急いで役場へ行きました。情報が混乱していて、そのときは甲府が震源地だと思っていました。災害対策本部が設置される頃には半数くらいの消防団員も集まり、まずは住民を学校や幼稚園などに避難誘導してもらいました。14日の夜には住民の人員及び安全確認ができました。ただし、村と近隣町村を結ぶ県道や村道は完全に絶たれ、一時的にも村は完全孤立状態。ライフラインも絶たれてしまいました。断続的な余震、暗闇、恐怖心、また逆にみんなでいることの安心感と守られないプライバシー…。複雑な一夜だったと思います。
翌日には関係機関の素早い対応で村道が開通し、自衛隊や県警など多くの救援隊が村にきてくれました。当時、村の人口は約1,200人。駆けつけた救援隊が常時300人くらい、一番多いときで2,000人もの人数です。そうした人たちにどこをどう捜索してもらうか、何をお願いするかなど、受入れ側の対応も大変でした。消防団では、開田村がいち早く駆けつけてくれましたが、状況把握もままならず危険な状態で、せっかくの申入れもお断りしたほどです。村の消防団ですら、安全確認できるまでは団員を危険な捜索活動には参加させませんでした。消防団といえども素人集団、私としては二次災害を一番避けたかったのです。消防は捜索もさることながら、日中は毎日送られてくる救援物資や食料の分配、年寄り家庭の家の管理や補修、夜は交替で警らに努めました。9月14日から対策本部が解散した11月3日まで団員は会社を休み、こうした活動を続けました。
そんなこんなで、私は約1か月ほど家にも戻らず、役場や学校に寝泊まりしていました。家のかたづけは家内と近くの親戚がしましたが、長靴を履いてやったようです。2階のサッシはベランダを越えて飛び出し、タンスの引き出しも飛び出した状態。電気機器も落ち、食器棚は倒れて、趣味で集めていた徳利や杯は半分が割れてしまいました。風呂場にも亀裂は入りましたが、幸いなことに、平らな土地に建てた家だったので、建物そのものの被害はそれほどでなかったので助かりました。
地震は8時48分にありましたので、ほとんどの家で食事を終えていた時間帯が幸いして、地震による火災が一つもなかったことが本当に良かったと思っています。後の検査で、ほとんどの家のガスの元栓が閉められていたという報告にホッと胸をなでおろしました。
消防という立場では、地元の地形の把握が大切だということを学びました。あとどれくらい掘れば川底になるか、水位はどれくらいあったかなどが捜索活動には大切なことでした。あまりの大災害に、天然湖ができるなど大きな地形の変化がありましたが、いろいろ教えられる災害でもありました。
教訓
伝えたいこと
日ごろの火の元の注意(ガスの元栓を閉める等)が火事による二次災害を防いだ。
◆応援に駆けつけてくれる他機関の受入体制を万全にしておくこと。
まさか王滝に「なまず」がいるとは思わなかった。
木曽郡王滝村Y.Oさん(当時51歳・営林署員)
当時、私は仕事の関係で、生まれ育った王滝村を離れ、大町の営林署にいました。あの日、普段と同じように仕事をしていると、妻から「お父さん、そっちは大丈夫?王滝がこれだけ大変なのだから、そっちはもっとすごいでしょ?」と、電話がありました。その後、電話も通じなくなり、テレビやラジオでは王滝村の情報が流れはじめました。慌てて、長野で仕事をしていた長男に連絡をとり「どうも王滝が相当やられたらしい。すぐに帰ろう」と、車で大町まで来てもらい、長男と2人で王滝へ向かいました。
妻と連絡をとれないままだったので、気持ちは焦るばかりでしたが、「命は大丈夫だろう」と必死で気持ちを落ち着かせ、車を走らせました。途中、余震も続いていましたし、車が通り過ぎた直後に石がゴロゴロッと落ちてきたりと、冷や汗の出ることも幾度かありました。
やっとの思いで王滝に着いたのは、午後3時頃でした。別世界のように変わり果てた、地獄のような村の姿に驚きました。家はどうにか建っていましたが、中はめちゃくちゃでした。妻と私の母はどうにか無事でいましたが、妻はタンスの下敷きとなり、自力ではい出してきたと言います。今でしたら、家具に金具を取り付けたり、様々な地震対策の知識がありますが、あの頃は地震に対しての備えなど何もしていませんでした。しかも直下型の地震だったため、その瞬間の出来事は想像を絶するものだったと思います。幸いにも、わが家は外見的にはそれ程ダメージを受けなかったものの、家は傾いており、家をジャッキで持ち上げて、ようやく戸が開くようにしました。
地震の被害は、言葉も出ないほど相当なものでした。王滝は雪の多い所なので、わが家もそうですが、トタン屋根の家が多いのです。しかし、瓦屋根の家もあり、地震によって全滅に近いくらい、瓦屋根は壊されました。また、避難所になるはずの公民館は、地震により天井が落ちてしまったため、急きょ、王滝村小・中学校とその近くの保育園に村中の住民が避難しました。私たちも、何日か村に滞在していましたが、その間もずっと余震は続き、その度に身の縮む思いをしました。
この時大きな被害をもたらしたのは、地震と同時に土石流の発生でした。わが家からさほど離れていない場所では、土石流によって家が押し流されたり、亡くなられた方もいました。土石流は新幹線並みのスピードがあったそうで、王滝川をせき止め、天然のダム湖をつくったそうです。後で自分の目で目の当たりにし、あらためて自然の猛威に息をのみました。
この災害は、のちに「長野県西部地震、震源地王滝村、直下型大地震」となりましたが、あの時は、妻が電話で言っていたように、まさか自分たちの住み慣れたこの地が、こんな大災害の中心になろうとは夢にも思いませんでした。その後も仕事の関係で王滝村を離れることが多かったのですが、王滝村のことや地震のこと、大自然の猛威など、忘れたことはありません。仕事柄、日夜、山や木々に接していたので、その大切さを改めて考えさせられもしました。あれから、家族との連絡をこまめに取るようになりましたし、どこかに出るときは「~に行くよ」と声を掛け合うことを心がけています。
教訓
伝えたいこと
外出時は必ず行き先を告げてから出かけるなど、家族との連絡をこまめにとる。
◆避難所になるはずの公民館は天井が落ちてしまっていた。
大災害ではマスコミも含めた関係機関の情報連携が大切。
木曽郡三岳村J.Yさん(当時39歳・役場職員)
昭和58年には、9月27日から台風10号による雨が降り始め、御岳山で437mm、役場で262mmを記録しました。とくに開田村、井原方面、本洞奥の降雨量が多く、翌28日、西野川、本洞川が濁流となり、田や畑の流失、冠水は三岳村始まって以来の被害となりました。当時、総務係長として防災を担当していた私もよく覚えています。家屋の一部破損3棟、床上浸水2棟、床下浸水18棟に及び、田畑のほか、県道、林道、村道、橋りょうなど甚大な被害を受けました。
再びこのような災害がないようにと、村では新しい地域防災計画を策定し、対応にあたりました。その新地域防災計画に基づき、東海地震を想定した総合防災訓練を行ったのが、翌昭和59年の9月1日で、長野県西部地震の2週間ほど前でした。
9月14日、小雨のなか役場職員は登庁し、庁内の掃除を終えて、それぞれ所定の場所で事務に取りかかっていました。その矢先、突然の地震に襲われたのです。大きな揺れに建物と体が沈む感覚でした。すぐさま鈍い音とともに大きな余震があり、キャビネットの中からは書類が飛び出し、タバコの自動販売機は倒れ、あたり一面に物が散乱しましたが身動きがとれません。職員は机の下に入りましたが、落ち着くと駐車場に終結し、対応を図りました。しかし、そのときはまだ隣村の王滝村が震源地だとは知らず、住民にそのことを周知できたのは地震発生から50分ほど経過したときでした。
庁舎では、屋上に設置された小屋が崩れ、4階のガラスが破損、落下し、また高架水槽が崩れ、貯水した水が2階事務所まで流れ出ました。さらに、震動で庁内の電話交換機が故障し不通となりました。村内では、住宅の一部破損84戸のほか、学校などの公共の建物も被害を受けました。また、御岳王滝黒沢線、福島御岳線などの県道で決壊や亀裂、陥没などがあり通行止めとなり、さらに林業、農業、商業にも少なからぬ被害がありました。
村長が出張中ではありましたが、幸いにも先の総合防災訓練により、対策本部設置後の広報がスムーズにできたことが、村内で人的被害のなかったことにつながったと考えます。
しかし、誰もが予想だにしなかった突然の出来事と、度重なる大きな地震に住民は恐怖と不安でいっぱいだったと思います。村内の身近なところで起きた水害などならともかく、これほどの大規模な災害では、村の情報収集機能だけでは不足です。マスコミはヘリコプターで上空から報道し、それを住民も見るわけですが、役場では独自に被害状況を知る術がありませんから、住民の不安に応えることもできません。情報は入らないのに、問い合わせは役場に集中してしまいます。ジレンマを感じた苦い思いがあります。また、木曽川下流の水源地ともなっている牧尾ダムは大丈夫かとの問い合わせが役場に入りましたが、それも中部電力に確認して対応しなければなりませんでした。
どんな災害のときにおいても、迅速で正確な情報は、住民の不安を取り除きますが、そのためには関係機関のすべてとうまく連携した情報収集、発信が重要になってくると痛感しました。
教訓
伝えたいこと
大災害の折には地元自治体だけでは情報をつかみきれない。関係機関の情報連携が必要。
◆直前に総合防災訓練を行い、広報活動がスムーズにできた。
お問い合わせ
より良いウェブサイトにするためにみなさまのご意見をお聞かせください