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更新日:2021年11月29日
(2)台風・秋雨前線豪雨(昭和20年9月28日~10月5日)
被害地域
県内全域
被害状況
人的被害(人):死者7/行方不明1/負傷6
住家被害(棟):全壊102/半壊4/床上浸水2,204/床下浸水4,843
戦後の混乱期にわが家を襲った不幸でした
飯田市K.Kさん(当時13歳)
昭和20年10月5日、連日の雨で付近の玉川がはん濫し、橋が全部落ちてしまっていたため、私や兄弟たちは学校へ行けずに家で休んでいました。天竜川の対岸の川路小学校は2階の窓まで水がついたといいますから、かなりの量の水が出たのでしょう(川路小学校はその後現在地に移転)。
私は弟2人といっしょにいちばん奥の部屋にいて、3人そろって寝転んで、彼らに本を読んであげていました。姉は手前の部屋に、父も家の入口のほうにいたと思います。もう1人の弟は母に連れられて外便所にいっていました。
午前9時半頃だと思います。私たちの目の前の壁がドシンというものすごい音をたてました。その後は何が起こったかなどわかりません。大量の土砂と水と竹の林が部屋の中になだれ込んできました。こちらの言葉で「山抜け」といいますが、裏山が崩れて蔵をつぶし、さらに住宅まで押し流したのです。同室にいた弟たちがどうなったのかわかりません。父や母、姉、もう1人の弟もどうなったのかわかりません。
私はどうして屋外のやぶの中にいるのだろうと思いながらも、首から上を土砂の上に出していたので助かりました。同室の弟2人は亡くなりました。いちばん遠いところにいたはずの姉も建物や石に打たれて意識をなくし窒息したのでしょう、亡くなってしまいました。わが家で生き残ったのは、私と両親と、母が外便所に連れ出していたもう1人の弟だけでした。
戦争が終わってまだわずかしか時間のたっていない時期の悲劇でした。戦中、この付近の山も木を供出するために乱伐が行われました。わずかな竹やぶが残った山には保水力がなかったのでしょう。裏山の沢は周囲の土砂を巻き込んで、幅10m、長さ70~80mにわたって崩れ落ちたのでした。
もろい花崗岩からなり、地盤の弱いこの地方では昭和12年から国営砂防が行われていました。禿山の修復です。戦中戦後の仕事のない時期、砂防事業はこの周辺の住民にとって生活を守る大切な労働でした。しかし私たちが災害にあった当時、それはまだ奥地でのことでした。それに自然の脅威は人工的に食い止めることは難しいものです。さらに戦後の混乱期で、現在のような保障制度もありません。
砂防工事などは個人ではできませんから、その後私たちは自衛手段として、山の木は必要以外なるべく切らないようにしました。雨が降れば見回りを怠らないようにしました。今では裏山の松もずいぶん大きくなって、土壌も安定してきたと思います。
砂防・治山は規模の小さいところでは遅れがちです。予算のかかることなのでしょうが、工事の優先順位をそこに暮らす人の納得のいくかたちで決めてほしいという希望があります。
教訓
伝えたいこと
災害防止はそれぞれの立場ですることが大切。住民として持ち山の手入れがその一つ。
◆治山・砂防工事などは、住民にも十分説明し、実施してほしい。
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