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更新日:2021年11月29日
(12)台風第10号(昭和58年9月28日~29日)
被害地域
県内全域
被害状況
人的被害(人):死者9/負傷44
住家被害(棟):全壊53/半壊92/一部損壊92/床上浸水3,906/床下浸水6,975
家の土台を高くして、諏訪湖逆流による浸水に備える。
諏訪市K.Kさん(当時53歳・会社員)
諏訪湖からの逆流の水害に泣かされるのが、諏訪湖近くの湖岸通りや湖柳町など低いところにある地域。昭和58年の「58災害」のときも、うちは床下浸水だけですんだけれど、同じ町内でも床上浸水したところもあったからね。うちは町内でも比較的高いところにあるんだけれど、それでも床すれすれまで水がきているんですよ。庭の池も沈んじゃって、まあ金魚はかえって生き生きしていたようですが。とにかくあの町内では、たとえ湖から離れていても低ければだめですね。
実は私はあのとき、富士見町の工場で責任者をやっていたもので、会社のほうが心配で、家のことはほったらかして朝9時頃飛び出していたんです。後で家の者には叱られましたが、富士見町へ行くのに、電車は止まっているし、道路は冠水して通行止めでした。それで自転車で出たのはいいけど、水はもうひざのあたりまできているから、自転車を担ぎ上げて。走れるところを探し探し進んだという感じでした。結局、3時間ぐらいかかったんじゃないかなあ。まあ若かったから体力はありましたね。
昭和58年以前にも昭和40年代だったと思うんですが、私の印象ではもっと大きな水害にあっているんです。逆流の浸水っていうのは、ヒタヒタと水が増えて、ヒタヒタと引いていく感じなんです。水が引くまでには2日くらいかかったと思います。また、雨が上がった後にくるから、雨がやんだといって安心するわけにはいかない。あのときも様子を見ながら、とにかく1階の畳だけは上げておきました。
山のほうの地区は、雨が振って川がドッとあふれて、鉄砲水の被害ですよね。私も見たけれど、ドードーとものすごい流れ。58災害のときも角間川がはん濫して、あの沿線の家は相当傾いたと思います。
水害への備えといっても、個人でできることは家の土台を上げることぐらいでしょう。私も昭和58年以降、家を増改築したので土台を上げました。ただ、58災害の後、諏訪湖からの逆流防止ということで湖の周りはかなり高く護岸整備がなされました。観光客には諏訪湖が見えないと不評かもしれないけれど、これは効果がありました。諏訪湖の近くなど数か所にポンプ場が設けられ、もし水位が上がってきたらこれを稼働させるように町に委託されているんです。このポンプは相当能力があるし、ほかに災害のときに必要となってくるモーター、投光機なども地区に備えられました。また、大雨が降ったときは必ず役員が町内を見回るとか、ポンプ場に詰めるなど、各町内のなかでも防災体制がとられるようになりました。
諏訪はこうした水害だけではなくて、東海地震の心配もいわれています。強化地域にも指定されました。私は、昭和19年の東南海地震も体験しているんですが、あれは自分の人生の中で一番すごい経験でした。人生はいつ何が起こるかわからないですね。今、家を新築しているので、とりあえず地震に強いということをうたっている住宅メーカーさんにお願いしました。基礎に太い支柱678本を地下6mぐらいまで埋めているから、かなり土台はしっかりしていますね。まあ地震で家は壊れなかったけれど、家具の下敷きになった、なんてことにならないように備えをしておかなければいけないと思っています。
教訓
伝えたいこと
逆流の水害は、雨がやんだあとにやってくる。雨がやんでも安心せず様子を見る。
◆地震に対しては、家具など家の中の危険物に対しても備える。
2mも3mもあるような石がゴロンゴロンと流れてきて
諏訪市M.Tさん(当時41歳・消防分団長)
いま、思い出しても身震いがしますね。あんな災害は、私は生まれて初めてだったし、当時まだ生きていたおふくろも初めてだって言ってましたからね。
「これはちょっと普通の降り方じゃないぞ」、そんなすごい雨が2日間続きました。私は当時、市の消防団の第3分団長だったんです。市長を本部長とした対策本部ができ、諏訪湖の水量が増えた、市内に水がついてきた、山が崩れそうだということで準備をするよう命令が出たわけです。そこで団員たちと危険か所を見て回ったんだが、とにかくすごい。一級河川の角間川ははん濫寸前、2mも3mもあるような石はゴロンゴロンと流れてくる、大木は流れてくる。「これは怖いぞ」。川の形がどんどん変わっていってしまうんです。山だって、緑の木が根こそぎとられて、一晩たってみると山の形が違うんです。私が当時受け持っていた団員は126名。それを五つに分けると一つが10~15人ぐらいで、団員たちも大変だったと思います。巡回があと10分ずれていたら、団員も巻き込まれていたかもしれない、そんな状況もありました。
あのときはいくつかの山が崩れ、亡くなった方も出てしまいました。その一つ、福たくさんでは行方不明者が見つからずに、寝ずの捜索をやりました。遺体の捜索は本当につらく、いまでも思い出すとつらいですよ。唐たくさんでも流されて、逃げようがなかった方もいました。近所の人で知り合いだったもので、余計切なくて。どんどん地面がえぐられ建物が崩れていくのを目の当たりにして、「家の蔵が流される!大切なものが入っている。取りに行ってくれ!」と必死で叫ぶ人もいる。気持ちは痛いほどわかるんです。勢いのある団員が行こうとする、しかしそれを止めに入って。とにかく住民の生命も、団員の生命も守ること、それが最重要でした。
その後は、また雨が降ったら危険だからと地割れしているところにシートをかぶせて回ったり、5日間は出詰めでした。ただみなさんの生命と財産を守るという使命で団員たちは本当によくやってくれたし、地域の住民のみなさんからはおにぎりをもらったり、救助活動に協力していただいたりと感謝してます。みんながまとまって協力しあえたことは幸いでした。あのときの体験から、自分では避難ロープ、乾パンや医療品を入れた救護袋を用意したり、飲料水としてペットボトル5本ぐらいに水を入れ、1か月に1回中身を入れ替えています。最初の一杯の水がうんと大切。水を口にできれば元気が出て、よし、がんばろうって気になるんですよ。諏訪は地震の心配もあるので、避難場所を確認しておくのはもちろん大切なこと。ただ、そこに行くまでに危険か所があるんじゃないか、避難場所そのものの安全性はどうなのかという不安はあります。また避難勧告が出たときに勇気をもって従えるかどうか。確かに避難所は大変だと思うけれど、何も起きなかったら幸いだ、という気持ちで従わなければならないかなと思います。またいざというときに、その地域でリーダーとなる人の存在は必要です。そのためには、やはり日ごろの近所づきあいが大切ということになるのでしょうか。
自然が猛威を振るうと、本当に怖い。人間なんて自然には逆らえない生き物ですね。あれ以降大きな災害はないけれど、災害は忘れた頃にやってくるというからね。
教訓
伝えたいこと
避難場所や、そこに行くまでの避難路の安全性についても確認しておく。
◆食料、医療品など防災用品の準備を。中でも飲料水のありがたさは被災で実感。
地元の川をよく知ること、その情報で連携することが大切
茅野市J.Yさん(当時18歳・消防署員)
その年は私が消防署に入った年で、本来なら長野市の東福寺にある消防学校へ行っているはずでした。しかし、学校の定員が当時いっぱいだったため、私は地元の消防署に勤務していました。
連日の雨で市内のあちこちが危険だといわれていましたが、私と家族が住んでいた米沢地区は、過去に水害にあった覚えはありません。土地の古老に聞いても、そんな記憶はないといわれていた場所です。確かに、霧ヶ峰から流れる藤原川、檜沢川、前島川、横河川、上川などが集まってくる場所で、すべての川が荒れれば、災害も考えられなくはないのですが、そんなことは人の記憶のなかには今までなかったのです。
自宅前の藤原川には小さな橋がかかっていました。川の幅は6mくらいで、少しくらいの出水なら心配はいりませんでした。ふだんの水量もせいぜい大人の膝くらいです。ところがその橋に、たまたま上流から流れてきたビニールハウスの残骸が引っかかってしまったのです。
夜7時頃、水はそこからあふれ出し、私たちの集落へと流れてきました。みるみる一帯は膝までの深さとなり、身動きができません。消防署からも他地区への出動要請で声がかかりましたが、動きようにも車も出せない状況でした。
私の家は幸い少し高いところにありましたので、家屋自体が水に浸かることはありませんでした。ただ、家が農家なので、倉庫などが泥だらけになってしまいました。次つぎにあふれてくる水に対して、誰もなす術がありません。せいぜい、大切な家財道具などを水のつかない場所に移動させるくらいです。それでも周囲の状況だけはつかんでおこうと、歩いて集落の高台にいきましたが、もはやどこが道で、畑で、川なのかはっきりしません。地元の私だからある程度見当はつきますが、まわりは水だらけでした。
水が引いたのは翌朝5時頃でした。出水の具合を見に行った父が、橋のたもとの道にぽっかり開いた直径4mほどの穴に誤って落ちてしまいました。ケガもなくすみましたが、あれだけ水があふれ出してはもはや消防のレベルでは何もできません。ただ水が引くのを待つだけなのです。
災害を通して、たとえ100年に1回あるかないかの出水でも、川は急に水量を増すのだということを肝に銘じました。自然の川の流れというものは、人間の力で計算しつくせるものではありません。たまたまこの災害の際は、橋にものが引っかかってしまったという不運も重なりましたが、私も含め、地域の住民のなかにわずかなりとも危機意識が生まれたのは事実です。
その後、川の土手もかさ上げされ、防御フェンスもできて、万一同様の水害があった場合にも、土のうを積むなどの水防がやりやすい状態になりました。あとは、いざ災害というときの消防署と地元消防団との連携も大切でしょう。地元のことや地元の川のことをいちばんよく知る消防団と、情報や水防方法についてスムーズに交換できる体制がさらに固まればいいと思いました。
教訓
伝えたいこと
人間の予測や想像を超えた災害というものはあるものだ。
◆地元でその川の性質をよく知る人の情報を大切にして、水防の連携をスムーズに。
「女房が流される」。いざとなると何もできないもんだね
木曽郡木曽福島町K.Oさん
もう20年近くもたつんですね。あのときはかなりの雨が降ってました。おそらく地盤がゆるんでいたと思うのですが、そこへ急激に降ったものだから、自宅のすぐ裏の沢からドーッと土砂が流れてきて、結局、母屋の隣にあった離れが流されたんですよ。父親やおじいさんの代よりもずっとずっと前から、ずっとこの地に住んでいて、ここで自然災害が起こるなんて、あのときまでまったく思いもしませんでした。もし何かある場所だったら、親が何か言っていたはずですが…。自然災害っていうのは、本当にいつ起こるかわからないものですね。
あの日、私は家のほうが心配で、職場から早く帰ったんです。水の流れをよくしようと思って、家の外で、鍬でゴミを取っていました。そのとき、ふっと上を見ると、木がワーッと波を打っているというか、動いて迫ってくる。女房は離れにいる。「これはえらいことだ、女房が流されちゃう」って、家へとんで帰りました。人間っていうのは面白いものですね、慌ててしまうと冷静に判断ができなくなるんです。ちょうど火事のときワケのわからないものを持ち出してくるようなもんだね。「土砂が山になって迫ってくる。うちが動いている」。入口の戸はきしんで開かないし、とにかく女房を助けなきゃって焦るんだけど、どうしていいかわからない。ふっと後ろを見ると、女房がいたんです。土砂の勢いで飛ばされてサッシが壊れ、そこから出てこれたらしい。慌てて二人で逃げました。まだ生きていたおじいさんとおばあさんは、裸足で母屋から飛び出してきた。ゴーッて、土砂が崩れるものすごい音がしたらしいのですが、私は外にいて、自宅の前の川がものすごい勢いで流れているから、その音で土砂が崩れる音は全然わからなかった。まさか上から土砂がくるなんて予想もしていなかったわけです。だからあのとき偶然、上を見なけりゃ私だって流されていたかもしれない。タイミングですね。とにかく山が動いているように見える、波打ってこっちへくる。あのときの怖ろしさは言葉じゃ言い表せないですね。
消防団もきてくれて、二次災害のおそれがあるから避難してくれということで、その日は近くに弟がいるのでそこに避難しました。あの後すぐに堰堤を造っていただいたから、気分的には安心ですね。それでも、懐中電灯は各部屋においてます。あのときは夜じゃなかったからよかったけど、暗かったらどうしようもないですから。しかしすごいですねぇ、水の勢いというのは。木をみんななぎ倒して流してしまう。あたりが一変してまるっきり変わってしまいました。家のそばの畑も流れちゃって川になってしまい、すぐには引かなかったように思います。この地区は町の中で一番上にあるから、下の地区も浸水で大変だったんじゃないでしょうか。
いざというときは、近所づきあいも大事ですね。この地区は9軒ありますが、おかげさまで、お互いに助け合うというつながりがあります。「食べるものに困りゃくれるぞ」って言ってます。こういうことは、どうしても時間がたつと忘れてしまいます。そんなときこそ気をつけなきゃいけないと思いますが…。まあ、ああいう体験はもうこりごりですね。
教訓
伝えたいこと
夜間の災害に備えて懐中電灯を部屋ごとに常備している。
◆隣近所で互いに助け合うことが大切。
川沿いに住む宿命か
東筑摩郡明科町Y.Tさん(当時40歳・自営業)
なにしろ、すぐ裏手が犀川ですから。水がついてしまうことに対して、ある程度「仕方がない」という気持ちがあるわけです。あれは、私が5、6歳の頃の記憶でしょうか。庭いっぱいに水がついて、まるで池の中に自分が立って、その景色を見ている思い出があるのです。だからと言っては変だが、水がくる、犀川があふれそうだとなっても、「今さら、どうしようもない」というあきらめというか、いや、それよりも、正面からどんと受け止める気構えができているんです。ここら近所の人たちは、みんなそんなものだと思いますよ。
それでも、あの台風10号の犀川の増水は急激だった。降ったりやんだりしていた雨は犀川を少しずつ増水させ、濁った水の勢いが強くなるにつれ、地元の消防団も出て、警戒態勢に入っていました。28日の夜7時頃だったか、分団長の持っていた無線機から「大町ダムが放流を始めた」という連絡が聞こえてきて、それからだったと思います。水かさが目に見えてぐんぐん増え、それから1時間もしないうちに、堤防を乗り越えて水が家のほうに押し寄せてきました。
経験からの知恵というか、もうすでにそのときには、畳を上げ、持ち上げられるものは2階に運び上げてありました。近所や親戚、消防団の方々が力を貸してくださり、人手も十分ありました。私の家の下隣り、土手側の家の分で2階に上げられないものも、そのまま私の家のほうに運び入れてありましたから、ひとまずは安心のはずでした。しかし、現実は予想をはるかに超える水かさとなり、下の家は新聞受けが沈み、玄関口の上にまで水が届く勢いです。それから暗闇のなか、慌てて総動員をかけ、家の中の物をまた運び出し、道路をしばらく登ったまた別の家へと移動させました。雨はやんでいましたが、暗闇を、懐中電灯のか細い明かりだけを頼りに、男たちが声をかけあい、水に埋まろうとする家から家財道具を必死で運び出していたのです。
結局、増水後1時間たらずで水は引きましたが、翌朝見ると、下の家は押し入れの中段まで水に浸かり、私の家は台所の床下収納に水が残り水槽のようでした。まだ蒸し暑さが残る季節でしたので、翌日からは消毒やら畳干しやらにすぐとりかかり、かたづけも皆で協力しあい、手早くできました。これも、川のそばで生まれ育った宿命を受け入れ、誰もが「そういうものだから」と考えているからではないでしょうか。
この水害のあと、堤防は60cmかさ上げされ、以後水があふれるという災害は起きていません。川はどんどんコンクリートで固められてしまいましたが、私たちが小さい頃は、魚をつかまえたり授業で泳いだりしたものです。きれいな川で、本当の意味で川に親しんできたんです。川で遊ばせてもらってきた。だから子どものときに水害にあっていても、怖いとか、嫌だとかという気持ちにもならなかったんですね、きっと。
教訓
伝えたいこと
住民はみな心構えと準備ができていたので、荷物の移動や避難はスムーズだった。
◆この先も水害の心配はあるが、生まれ育ち、愛着あるこの地で防災対策を図って、暮らしていきたい。
郵便局が流されていく、ただ見ているしかなかった。
南安曇郡奈川村Y.Oさん(当時52歳・郵便局長)
昭和58年、台風10号による集中豪雨災害は私どもの村にとっても未曾有の大災害でした。その日は、降っていた雨がどんどんひどくなってきて、午後3時頃からものすごい降りになってきたんです。郵便局の裏側の大寄合川もかなり増水しており、「これは何かあるぞ」と、私は万一に備えて局の中のものを近くの民家へ運び出したんです。とにかく雨の降り方が異常でしたから。一時的に水が少なくなって、これはいいかなと思ったんですが、近くの人にお願いしてロッカーも運び出した途端、水がみるみるうちに増え鉄砲水となって押し寄せてきました。局舎の隣の畜舎が流され、見ているうちに、カラマツの大木が流れてきてそれが局舎を直撃。私は隣のうちの電話を借りて長野郵政局に電話を入れたんです。「実況中継します、いま、局舎が流れていきます」と。
目の前で局舎が流されていく、でもどうすることもできない。ただ見ているだけなんです。消防団員の人が助けにきてくれて、軽トラで荷物を自分の家に運んだんですが。道路は立ち往生してしまった車がずらっと並んでいて、ふと隣の家の車庫を見ると、車がプカプカ浮かんでいるんですよ。あんな光景は初めて見ました。
局や自宅があった寄合渡の地区は被害が大きかったんです。家の中に材木や大きな石が突っ込んでくる、保育所だって土砂流の直撃を受けて建物の中には大きな石やらカラマツの大木やらがゴロゴロしているんですよ。川浦公会堂は流され、お堂が流され、三十何体あった石像もほとんど流れてしまいました。太い鉄骨も両端を強い力で押さえられたのか、橋脚にマフラーのように巻きついているし。郵便局のあったところは、河原になってしまいました。数日たった頃、大事な書類が何か流されていて人目についてはいけないと思い、リュックを背負って川沿いをずーっと歩いてみたんです。不思議ですね。紙切れっていうのが全然ないんです。流された金庫もなかった。ただ局舎が流失する前に中の荷物を運び出したのは、生き物としての直感だったのかなと思うんですよ。あのときのことは、ついこの間のことのように今でも浮かんできます。郵便局はその後、移動郵便局「おとずれ号」を応急に出動してもらい、私の家の前において、車の中で業務を行いました。
水道も電気も止まってしまい、道も寸断され、まさに村は陸の孤島でした。それまであったはずの橋がパッツンと落ちているんだから…。翌々日にはヘリコプターで緊急物資が運ばれてきました。そんななかで、松本や安曇方面の方からお見舞いをいただいたことは本当に感謝しています。そのご恩をどのようにお返しすればいいかなと思ってきました。隣の奈川局からも局員の皆さんが助けにきてくれてありがたかったです。
ここでは人的被害が無かったのが幸いでした。災害が発生した時間帯が夕方だったので、緊張感もあったんでしょう。あれが夜、寝静まったあとだったらもっと大変だったでしょうね。水害というものは本当に怖ろしいです。大きな被害を出さないためにも、とにかく河川整備はきちんとやってもらいたいと思います。
教訓
伝えたいこと
水害の被害を大きくしないためにも、安心できる河川整備が必要。
民家や郵便局が流され、道路や林がみんな川に
南安曇郡奈川村O.Oさん(当時56歳・役場職員)
昭和58年9月28日、このときは総雨量289mm、最大時間雨量37mmで、この地域にとって未曾有の雨量でした。そのため村のあちらこちらにある沢という沢から土砂が押し出したんです。それが下流へと流れたんですが、水害を大きくしたのが、川原に植えられていたカラマツなどの立木。カラマツの大木が土石流に巻き込まれ、いっしょに流されてしまう。それが橋脚にひっかかって川をせき上げ、鉄砲水になってしまったんです。川向こうの公民館のところにある橋にも流木が流されて、そこでみんな詰まって、材木の山のようになっていましたから。カラマツは根が浅いので倒れやすいんですね。水の勢いで一気に押し出され、たくさん植えられていた木は全部押し流されてしまいました。
そんな状況で、私の家の前を流れる大寄合川がはん濫し、郵便局が流され、保育園にも土・石・木が一体となって襲いかかりました。雨が引いたあとの園庭には大木やら大きな石やらがゴロゴロしていました。この川は昭和20年にも水害があり、流路工の整備を早くしてほしいと陳情もしていたんです。工事は途中まで完了していましたが、結局まだ整備されていないところから水害が起きてしまいました。橋は落ち、家は流され、林も道路もみんな川になってしまいました。
私はあのとき村の教育委員会に勤めていました。朝から雨が降っていて、役場としても心配していたんです。巡回に出ていた職員から、無線で村のあちこちの状況が入ってきて、非常に緊迫していました。私はカメラを持って、村のあちこちの様子を写真に収めたんです。あのときは、生徒の家の様子が知りたいというので、学校の校長先生もいっしょに村の中を見て回りました。道路が寸断されて、歩くのも大変な状況でした。家が流されたと聞いてもその前の道路が濁流に押し流されてしまってないんです。あの日、松本に行っていた人たちも戻ってこられなかったのではないでしょうか。
保育園では子どもたちをいつもより早く帰したんですが、それがよかったんです。子どもたちが帰ったあと、保育園は土砂流の直撃を受けましたから。うちの孫も保育園に行っていましたが、危ないと思った家内が、孫を背負って山のほうへ逃げたといいます。近所の人たちもみんな山のほうへ逃げましたが、本当に怖ろしかったと言っていました。電気、水道、電話、みんな止まってしまったのですが、ちょうど秋で収穫した野菜などがあって、幸いにも、食べるのにはそんなに困らなかったのかなあ。
あの災害でここでは、人的被害が無かったのが幸いでした。早い時間だったのでよかったのでしょう。いま川原に、「水防の石」と名づけた大きな石が祀られています。直径2、3mほどあるでしょうか。昔はもっと大きくて、水害のときにはこの石に水がぶつかったおかげで水の勢いが弱められたんです。この石が、村の安全をこれからも守ってくれることを祈っています。
教訓
伝えたいこと
川原の立木は流木になり、水害を大きくする原因になるので管理が大切。
3年連続の水害発生
更埴市M.Sさん(当時60歳・区長)
この年の水害で、土口の被害は3年連続となりました。昭和56年から続けて毎年、3年連続です。当然、農地や住宅はそのたびに大きな被害を受けます。しかし、何が一番辛いかといえば、農作物の被害です。春に「今年こそは」と願いを込めて植え付け、暑い盛りも畑仕事に精を出して一生懸命働き、そしていよいよ収穫の秋を迎え…、という時期になって、すべてが水にのまれてだめになってしまうわけです。これは辛いものです。それが、3年続けてですから。しかも、怒っていくところがない。長芋もゴボウも、ビニールハウスの花も、手塩にかけて育てたものがやられてしまっても、泣き寝入りするしかないんです。それだけに、辛さを共有した者同士の連帯感には強いものがあって、あの非常事態の際にみんなが結集して、大きな力を発揮できたのではと思います。
たくさん川が千曲川へと流れ込む水門の開閉指示は、区長の判断となっていますので、梅雨の時期や8月~9月の台風の時期など、天気予報が気になって仕方ありません。あの台風も、東信地方でだいぶ降りそうだとわかったときから心構えはできていました。降り始めると公民館に詰め、眠れぬ夜を過ごしました。外が白み始めると、いても立ってもいられず、千曲川の見回りに出っ放しとなりました。ちょうど川が蛇行する地形で、川幅は広い場所なのですが、見る間にその水位が上がり始め、いつ水門を開ける指示を出すか苦悩しました。何しろ3年連続です。住民の意識のなかにも「またか」というあきらめがすでに広がっていたでしょうが、それと同時に、「いざ水がきたらどうしたら良いか」という対処方法も身についていたのではと思います。
それから間もなく、水門閉鎖。千曲の水が水門を逆流してたくさん川に入り込むのを防ぐためです。しかし当然のように、出口を失ったたくさん川の水が今度は堤防を乗り越えて、集落に向かいあふれ出しました。徐々に増えていく水の勢いは、ビニールハウスのビニールをはぎ取り、骨組みだけを残していきます。恐ろしいありさまでした。一緒に警戒にあたっていた市からはボートを借り受け、物資の調達や連絡に使いました。妻女台団地では、平屋の屋根の上に畳を上げたり、布団を上げて子どもを避難させている家屋もあり、地元消防団が活躍しました。また婦人会や日赤奉仕団のみなさんの炊き出しも迅速かつ適切でした。そして何より、住民一人ひとりが近所同士助け合う精神が徹底されており、この台風でも乗り切ることができました。水害で失ったものは大きかったですが、みんなが気持ちを一つにして団結できたことは、土口にとって得がたい宝だったと思います。
水害後は、消毒やらかたづけやら後処理にしばらく奔走しましたが、この疲労感、虚脱感を二度と繰り返してはならないという気持ちが日に日に強まり、それは土口住民の悲願となって、根本的な防災対策へと一気に加速していきました。市は真摯な応対で耳を傾け、排水ポンプ事業、堤防整備、そして新土口水門の建設を施工した。それからは、一度もこのような水害は発生しておりません。
あの水害のなか、ずぶ濡れの私を見て、「風邪をひくな」と声をかけてくださった優しさが今も忘れられません。
教訓
伝えたいこと
昔から住んでいる住民は、過去の水害を新しい住民にも伝えておく。
◆水害で失ったものは大きいが、みんなが気持ちを一つにして団結できた。
物事は“なから”が上策
上水内郡信州新町Y.Sさん(当時42歳・役場職員)
台風10号による豪雨災害は、信州新町の場合、東京電力の水内ダムが影響したものでした。このとき、私は町商工観光課長で、東電と地元被災者の間に立って補償交渉の事務局を担当しました。このなかで、被災者も行政側もこぶしを振り上げるのではなく、“なから”(中くらい)のところで物事を収めるのが上策だということを学びました。
水内ダムは同28日午前9時に800トンだった貯水量が、刻々増水。正午には1,125トン、午後3時には1,550トンとなり、牧野島お堂が決壊。町役場に午後4時半、災害対策本部が設置されました。この大雨で役場も浸水。町議会は雨のために延会となり、散会する始末。被害は町全域に及び、道路の決壊は176か所。184世帯、710人が床上浸水、床下浸水は35世帯、126人など、り災人員は847人に達しました。災害の発生は同日午後4時半頃で、水内ダムゲートが319トンを放流し、全開されたのは同27日夜7時。同28日夜7時25分に新町・里穂刈地区の400戸に避難指示が発せられ、同11時に災害救助法が適用となりました。
水内ダムが建設されたのは戦時中の昭和18年。(旧軍隊の召集令状の紙の色が赤いことから)赤紙的な事業だったので、水害が発生すると、「ダムの影響もあるかもしれないが、大水、大雨がたんと降ったってもんさ」と、受け止めていました。ところが、被災住民の怒りが高まってきて、住民と行政が離れてしまったのです。結局、約25億2,000万円の補償要求に対して、8億8,500万円で調印となり、町の歴史に残る災害になりました。
こうした交渉のとき、昔は例えば本家のじいさんがきて「おい、兄さ、“なから”のところで収めろや」との一言で収まったもの。最近では、重みのある「ひと声」を言える人が数少なくなったものです。
ダムの完成後、昭和20年にもまったく同じ量の水が出て、水が引けるのに3日間もかかりました。それなのに、被災住民は家財道具などを2階に上げずに、いまに引けるだろうと慣れっこになっていた。災害はどうにもならないものもありますが、防げるものもあります。「もしや」と、“ずく”を出すことです。昭和20年当時の水害では物資が不足しており、家財道具といえば布団とお膳ぐらいしか無かった。昭和58年災害では無い物はないくらいであらゆる物があふれており、まるで戦争の空爆さながらでした。
とにかく、現代は世界中で災害が発生しています。ダムの決壊だって考えられます。昔はくず屋根で、1軒で何トンもの雨水を保水していました。田んぼは減反で雨水を吸収せず、道路は舗装で雨がしみ込まず、畑はマルチでこれも雨をはじく。地球の上はまさにカラカサをさしているようなものです。大町市の高瀬ダムに降った雨水が水内ダムまで流れるのに、ひと頃は7時間もかかったのに、いまは4時間程度といわれます。降った雨は地中に浸み込まないでサッと流れるからです。ダムの操作だけはきちんと行わないといけません。
教訓
伝えたいこと
物事は「なから」が上策。
◆「もしや」を考えて「ずく」を出す。
今年も無事でよかった
上水内郡豊野町H.Kさん(当時43歳・役場職員)
「去年は災害が無くてよかった。今年も無事、平穏な年であるように祈ります」。私が住む組は毎年1月3日に約60人が参加して新年会を開きますが、組長のあいさつは、このようにするのが通例です。
本町の字名は「内土浮(うちどぶ)」、「外土浮(そとどぶ)」と呼ばれています。昭和20年頃までは柳行李を生産していました。ここはレンコンもできたほどの湿地帯。浅川を挟んでJR車両基地のある側が長野市、その反対側が豊野町。長野市と豊野町の境に大道橋があり、この周辺は水害の常習地帯です。田んぼを造成した宅地ですから、水が出ると稲の穂が水面に出ることもありました。私は冗談に「うちの中で釣りができるぜ」と、同僚たちに威張っていたものです。
大雨が降り千曲川が増水すると水門を閉めますが、いっ水して水がつくのです。大半は床上浸水の被害。南町は町公社が埋め立てて宅地造成、販売したもので、私も移り住んで2年目の頃です。当時、私は町役場の総務課長補佐で、企画担当でした。
台風10号による9月28日の水害は、護岸や道路の崩落、橋りょうの一部損壊、床上浸水227棟、床下浸水100棟、り災人員は800人に達しました。このため、消防団による避難誘導、ポンプでの排水、土のう積みを行う一方、日赤奉仕団の炊き出しもありました。町は災害対策本部を設置、避難指示を発しました。
私はそのとき、組の組長もしていました。夜は本町集会所に詰めて被災者の立場になり、被災者たちと町との交渉とか、組の相談に応じ、日中は役場に出て陣頭指揮です。家族は須坂市の親戚に預けました。
9・28水害でも「これは天災だ」「いや、人災だ」と、被災地でも議論が沸き、2晩ぐらい徹夜で大騒ぎしたものです。町長をはじめ、三役や議員も全員出席するなかで、地元の被災者たちと“暁の交渉”です。被災者同盟(200戸加盟)を組織して町側と交渉しましたが、結論は出ませんでした。
いろいろ言ってみても、災害にあいたくないのは全員同じです。以前は浅川の改修問題が浮上しても地権者の反対で進捗しませんでしたが、この水害を機に浅川の改修に拍車がかかったわけです。役場に係長クラスの3人からなる「浅川改修対策室」を急きょ設置して、専門的にあたりました。この結果、浅川の堤防のかさ上げをしたり、浅川系統に三念沢雨水ポンプ場、沖雨水ポンプ場の2か所を公共下水道雨水事業で建設しました。このポンプは1基9億円で、今後は威力を発揮するでしょう。計画水量で3日間に142cmの雨量に耐えられるようになり、9・28水害の関連では総額約72億円の予算が投じられています。
浅川の河川改修の後、2回も大水が出ましたが、もうあのときのような水害は発生していません。大雨が降ると、「おい、大丈夫かな」と心配そうに住民が集まってきます。しかし、豊野町では水害防止の見通しがつきました。豊野町は元気になりました。
教訓
伝えたいこと
住民や行政が一体となって防災対策をすすめ、災害防止の見通しがつき、地域が元気になった。
自然の力の脅威
中野市O.Iさん(当時29歳)
闇の中から音もなく地面をはってくる。すでに畑は一面にわたり泥水に覆われ、静かに静かに住宅まで迫ってくる。「ここで止まってくれ」との願いもむなしく、玄関から、勝手口から、そして床下からゴボゴボ床上に湧き上がってくる。畳や日用品は2階に上げたり高い場所へ移したり、その瞬間に備えてはいるが、増えてくる水を、ただただ見ているだけしかできない自分たちの無力さに肩を落とすだけ…。
これは、2年連続の台風水害を受けた2回目、昭和58年9月の台風10号被災後に書き残した記録の冒頭です。思い出したくない光景ですが、頭の中に深く潜んでいるものが、鮮明に浮かび上がってきます。
床上浸水など大きなツメ跡を残した昭和34年の伊勢湾台風の体験記憶がない私にとって、家の中まで水が入ってくるなんて「うそだろ」的な認識でしかありませんでした。しかし、父母らから聞いた過去の体験談が、現実のものと知るのに長い時間は必要としませんでした。
千曲川沿いで堤防がない私たちの地区にとって、北信地方での降水量より、もっと上流の東信での雨の量が気になります。増水が続き「こりゃ、あぶない」と近所の人たちが口々に言いながら、守りの準備に入ります。当時、父は区長だったため、家ばかりにいられません。私が率先して車や農機具などを公会堂の庭や神社へ運びました。床板の上にリンゴ箱を積み、その上に畳を重ね、ピアノは大きなビニールで水が入らないように包み、その上にオーディオ類を置きました。外の大きな物は流されないように固定。「ここまですれば大丈夫だろう」と考えたが、無情にも水位が止まる気配はなく一面泥の海。結局、あれほど重いピアノでさえ簡単に横倒しになってしまいました。
消防団員がボートに乗って炊き出しのおむすびを運んできてくれ、それを屋根の上から手を差し出して受け取りました。「大丈夫ですか?」「まあ、なんとか…」。団員の方が気づかってくれたが力が入らない、じっと水位が下がるのを待つだけでした。
母は3歳と生まれたばかりの孫の面倒、私たちは、水が下がるのに合わせて水道の蛇口をひねり、ホースで壁面を掃除。水を吸った壁はポロポロ落ち、においもひどい。水は去っても縁の下に泥水がたまり、「また、ここに住むのか」とため息です。
「去年経験しているためか、手際がいいな」と、へんに感心しながら応援にかけつけてくれた親戚の者と後かたづけをしました。そのとき、台風一過の太陽がやけにまぶしかったことを覚えています。住宅に畑、そして心の被害は計り知れません。これは、いくら準備していても、わかっていても、どうしようにも逆らえない自然の力の脅威を感じました。
あれから20年がたとうとしています。ぐるりと家屋を囲むように建設されている堤防も、ほぼ完成。最後の仕上げに余念がない重機を見るたびに、「これで安心して暮らせる」と感慨ひとしおです。細かな記憶が薄れていくなか、多くの人たちに感謝しながら、竣工式に出席しようと考えています。
教訓
伝えたいこと
台風はいくら予測できても、自然の力の脅威には逆らえないので、避難する準備が必要。
都市化や内水排除によって千曲川の水量が変わってきた
飯山市M.Kさん(当時38歳・消防分団長)
飯山市の水害の歴史は古く、明治から昭和58年の水害まで約30回、なかでも被害が大きかったのは明治29年7月の大洪水で、水位が地上約9m。そして昭和になって昭和34年と昭和57年の樽川堤防の破堤、昭和58年の常盤堤防の破堤による水害は、市内全域に大きな被害をもたらしました。当時私は飯山市消防団第7分団長をしていたので、その記憶は今でも鮮明に覚えています。
なぜ飯山市は昔から水害が多いか?それは長野市で千曲川と犀川が合流し、飯山市を経て新潟県へ流れますが、その際、長野県の全面積のなんと52%に降った雨がすべて飯山市を通過、さらにそこへ一級河川の樽川が千曲川に合流します。飯山市内は千曲川の勾配が緩やかで、出口の川幅が狭いため水がたまりやすく、本流の水量が増せばダムのようになってしまいます。そうなると当然支流の樽川の流れはせき止められ、逆流しながら洪水になるのです。
昭和56年頃から雨が降るたびに千曲川が増水、消防団が出動して本流に流れ込む小河川の樋門を閉めるなど、頻繁に水防活動をするようになったことに一抹の不安を感じていました。その不安は見事的中、昭和57年の台風18号災害では、木島地区は一瞬にして泥の海。また翌昭和58年の台風10号では私たち常盤地区が泥に埋まり、浸水家屋702世帯、豚646頭、鶏2,250羽が水死、被害総額55億1,000万円の大災害となりました。
2年連続の大水害を実際に経験して、都市化や内水排除など多くの要因が重なって千曲川が変わってきたことを痛感しました。本流の増水の原因は、これまで路面排水は道路の側面に落ちていたのが、コンクリートの側溝となってから川へ流れるようになったことや、上流で内水排除のための大型機場がどんどんつくられたことなどが考えられます。それは実際に昭和34年と昭和58年では雨量はほぼ等しかったにもかかわらず、本流に流れ込んだ水量は1.6倍もあったという調査結果が報告されたことでも明らかになりました。
水が上流から下流に流れるのは自然の姿、内水排除を否定するわけにはいきません。しかし上流に降った雨は一定時期責任を持って貯めておき、ピークを過ぎてから内水排除を行うなどの工夫は必要ではないでしょうか。自分の地域が被害にあわなければいいと対処するのでなく、全体的に最小限の被害ですむよう総合的な治水対策の検討が重要です。
そして水害が起きるとすぐに堤防のかさ上げをしようとしますが、高くさえすすれば永久的にOKといえるでしょうか。破堤さえしなければ大きな被害にはならないはず、だから低くてもオーバーフローしても「切れない堤防」が必要なのです。
消防団員は郷土のために、ときには死と背中合わせ、危険を承知で徹夜の水防作業を行います。昭和58年には常盤堤防を守るため、闇夜のなかで約80人の団員が高さ1m、長さ150mに約4,000袋の土のうを人海作戦で積み上げましたが、それは無惨にも押し流され、なすすべもないといった辛い思いをしました。より効果的な水防工法の開発をする際には、現在の16品目の水防資材の見直しに加え、機械力の装備や照明設備の充実を期待したいと思います。
教訓
伝えたいこと
都市化や内水排除によって千曲川の水量が変わってきた。
人はすなおに土地肥えて
飯山市H.Tさん(当時49歳・農業委員会長)
「戸狩堤防が決壊しました、急いで安全な場所へ避難してください」。けたたましくサイレンを鳴らしながら消防自動車がボリュームいっぱいにして走り去ってすぐ、平和な常盤の里が一瞬にして泥海と化しました。当時、農業委員会長をしていた私が会議から帰宅したとき、母は戸倉温泉へ出かけていて留守、妻は一人で夢中で家財を2階へ運び上げていました。妻が「仏壇を軽トラに積もう!」と言いだし、まず肥料を並べた上に大人3人がかりで仏壇を積み上げ、2キロ先のお宮まで車を運びました。その後、妻と高2の娘は下着と毛布を持って自転車で避難、私はぎりぎりまで自宅で頑張っていました。
常盤は昔から水害の多い地域、家はかなり土盛りして建っていたが、それでも昭和58年の大洪水では床上1m以上まで浸水。収穫を目前にした稲やりんご、60頭いた豚までも容赦なく濁流がのみ込み、生活の基盤は一瞬にして崩れてしまいました。昭和20年、34年、57年、これまで何度も洪水を経験した私は「やれやれ、またしてもやられたか」と落胆していると、お産をしてまだ1週間足らずの母豚が、自力で帰ってきた。当時家畜は家族同様に大切な命、「よく頑張った、よかった、よかった」と何度も背中をさすって喜んだが、3日後に力尽きて目の前で死んでしまいました。妻は何より切ないと涙を流し悲しんだが、私は悔しさと怒りに身が震える思いがしたのを覚えています。
しかし、いつまでも泣いてばかりはいられず、疲れた体にむち打ってゴミをかたづけました。親戚や友人、娘の担任の先生やクラスメイトまでもが応援に駆けつけて、荷物の搬入、家の泥をきれいに洗い流す作業を手伝ってくれました。それまで貧しさを知らずに育ってきた子どもたちは、何の予告もなしに水害の恐怖を体験、電気や飲み水もないなかで、我慢することや助け合うことの大切さを身をもって経験しました。われわれ大人も多くの方に温かい手を差し伸べてもらい、人の温もりや命の尊さを学ぶことができました。
その年は、例年より一か月も遅れて泥まみれの稲を手作業で刈り、りんごの収穫は半分以下に落ち込みました。水害は辛いことばかりですが、唯一のメリットは水害の年は野ネズミがいなくなり、水とともに流れてきた土が畑を肥沃にしてくれることで、常盤はゴボウの産地として有名に。常盤小学校の校歌の中には「人はすなおに土地肥えて」という詩がありますが、まさにそのとおりなのです。
また、この地区の若い男衆は消防団に入り、災害のときは地域のため率先して働いてくれます。長のつく立場の人は何日も泊まり込みで復旧作業をしたと後になって知りましたが、本人はもちろん、そのご家族はどんなにか不安だったことでしょう。本当に申し訳なく思いました。被災地区の消防団員はまず自宅を守ることを優先し、今後は他の地区の消防団が応援、活躍するような体制になればいいと思いました。
教訓
伝えたいこと
水と共に流れてきた土が畑を肥沃にしてくれた。自然とうまくつきあっていくことが大切。
水の怖さ
飯山市Y.Hさん(当時35歳)
29日の朝、千曲川増水のため常盤地区に避難勧告が出されたので、私は勤めに出るのをやめて有線放送から流れる千曲川水位の情報を聞き入っていました。
昨日から降り続いていた雨もやみ、天気も良いので水位も徐々に下がっていくだろうと軽い気持ちでいましたが、義母は心配して「物置小屋の米だけでも2階に上げておこう」と運び始めました。しかし8時頃、考えてもいなかった戸狩の堤防が決壊して、一気に濁流が流れ込んできました。「どうしよう、どうしよう」とあたふたしているうちに物置小屋に水が入ってきてしまい、慌てて自宅に駆け上がりました。
濁流は黄金色に輝いていた稲穂を覆い隠し、常盤田んぼを瞬く間に海にしてしまいました。義母は「一生懸命汗水たらしてつくった稲が全部駄目になってしまったなあ」と来年食べる米がないことを案じていました。
息子が「あっ!お母さん学校が…」と叫びました。息子の指さすほうを見ると小学校の校舎が濁流に飲み込まれ1階部分が見えなくなっていました。隣の保育園は、屋根しか見えず水没寸前でした。息子は「僕の教室大丈夫かな、ウサギたちはどうしているんだろう」と心配していました。私は「大丈夫、先生方がきっと安全な所に連れていっているから」と慰めました。娘が「見て!豚さん、かわいそうだよ」と言うと、田んぼの真ん中にある畜舎の豚がキィキィともがきながら逃げようと屋根にはい上がっているのが見えました。私はこの世のものとも思えない光景にあ然としてしまいました。
1時間たっても濁流の勢いは衰えません。水の量もどんどん増えてきています。「このまま水かさが増して、家まで水が入ってきたらどうしよう」と心配していると、義母が「大丈夫だよ、家は道路より2mも高い所にあるんだから、昔は洪水が度々あったので被害にあわないように、大塚の者は長峰添えに家を建てたのさ。普段は坂道で大変だがこういう時は安心さ」と言いましたが…。
翌日、水が引いた後のありさまはすごいものでした。物置小屋の農具は倒れ散乱し、泥を被っていた。壁ははがされ、床には5cmもの泥がたまっていました。私はなんだか心の中にぽっかり穴があいたようなむなしさを感じ、すぐに後かたづけに取りかかることができませんでした。
私はこの水害で、水の怖さを実感しました。テレビのニュースや写真などで災害の様子は何度も見ていて頭では理解しているつもりでしたが、実際に目の前で起きた水害はとても怖ろしく、人間の力ではどうしようもない自然の厳しさを感じました。
私も子どももこの水害の光景は、一生忘れることはできないでしょう。
教訓
伝えたいこと
「貧しさ」を知らない子どもが、我慢することや助け合うことの大切さを知った。
◆家を建てる際は、自然災害のことを考えて。
災害にあった者が伝えていかなければならないこと
飯山市A.Kさん(当時59歳)
それは昭和58年9月のことでした。「大雨で樽川の水位が上がっています。非常に危険な状態です、避難してください」という有線から緊急放送が流れてきました。でも私は昭和34年の水害の時は床下浸水ですんだから、まあたいしたことはないだろうと思って、明日の秋祭りのために赤飯を炊く準備をしていました。
しかし、有線から「樽川が危ない」という放送がひっきりなしに流れるし、午前7時頃には娘夫婦が心配して駆けつけてくれたこともあり、慌てて1階にある布団などを2階にかたづけ始めました。そのうちに、「樽川の堤防が決壊しました」という放送が流れ、天神堂のほうから水が濁流のごとく流れ込んできて、あっという間にあたり一面が海のようです。私はただただ呆然として、2階の窓から泥水がすごい勢いで流れ込んでくるのを見ているだけでした。流木に混じって、洗濯機や冷蔵庫などが濁流にもまれながら流れているのも見えました。
家のエノキの機械や、土蔵の中の米も流れていってしまうのかと私は心配になりました。でも、この水の中歩いて行くこともできず、困る、困ると心の中で叫んでいるしかありません。一緒に2階に上がって避難していた娘が、「水の力ってすごいね、なんでも流してしまうんだから怖いね」とぽつり。私もそう思いながら、口を開くこともできず黙ってじっと水の流れを見つめていました。1時間ぐらいすると水の流れも少し緩やかになってきて、消防団の人が小船を漕いで、屋根に登って困っている人たちを助けにきました。私たちも、「市民会館に避難してください」と声をかけられ、「どうする?」「このままここにいても、食べる物もないし、ここで一夜を過ごすのも不安だからなあ」と、娘たちと相談して、市民会館に避難することにしました。私は、樽川の決壊を防ぐために土のうを積みに行っている息子のことが心配でした。どうか無事でいてほしいと願いながら、避難所へ向かいました。
市民会館までは小船で向かいました。途中、牛が泥水の中をもがきながら逃げようとしているのを見かけ、上空では、救助のヘリコプターがけたたましくパタパタと音を立てていました。市民会館に着いたら、近所の人たちも避難していて「大変だったね」「お前たち何してた?」と、お互いに無事を確認し喜びあいました。そこで家のことや息子のことをいろいろ心配ながら、眠れぬ夜を過ごしました。
次の日は水がだいぶ引け、家に戻りました。息子も無事帰ってきており、水害にあわなかった親戚の人に手伝ってもらいながら、家の後かたづけをしました。テレビも冷蔵庫もみんなひっくりかえり、もうめちゃくちゃ。ちょうど秋の収穫時だったのに、農作物は全滅でした。エノキの機械も泥を被り、使いものにならなくなっていました。私はため息をつくしかありませんでした。しかし、驚いたことに仏壇だけはベニヤが船代わりになって浮いていたのか無傷。仏の力はすごいものだと思いました。一番悲しかったのは、大事な思い出の品々や夫の肩身の本が泥だらけになってしまったことでした。
私は、今まで生きてきて2度の水害を体験したが、この水害であらためて水の怖さを知りました。それは孫たちの世代にも伝えていかなければなりません。それが水害にあった者のする大事な仕事だと思っています。
教訓
伝えたいこと
災害の状況をすばやく住民に知らせることが大切。有線放送は実にありがたかった。
生き物を飼育する者の思い
飯山市Y.Sさん(当時34歳・養豚業)
前日からの大雨と千曲川の増水で、水害になると予測はしていました。豚舎の豚を安全な所へ避難させる心の準備もできていたので、まず最初に大塚にある豚舎へと向かいました。
養豚仲間に手伝ってもらい、子豚だけでも水に浸からないように豚小屋の二階へ避難させました。ベニヤを打ってバリケードを築き、餌も持ち上げて、万全を期しました。母豚は秋津の養豚所へ避難させました。その作業は翌日の朝5時まで続きました。
今度は家に水が入らないように、常盤でも高く水が入らないと思われる長峰の広い道に仏壇や貴重品を運び出しました。それから小沼にある豚舎へ向かうと、もうすでに水が入っていたのでした。豚舎の扉を開けて川上の堤防の上に豚を逃がそうとしましたが、水を怖がってなかなか出ていかないので、しょうがなくメス豚とオス豚を道より1m高い所に追い上げました。しかし、水は4m50cmまで入ってしまい、屋根の上では子豚が飛び跳ねていました。養豚業をしている人が方々にいたため、豚も逃げるのに必至だったのか、誰かれかまわず人の家に入り込んで、どこの家の豚なのかわからない状態になってしまいました。
水害になるという心の準備はできていたものの、頭の中はもうパニックで真っ白でした。これで養豚業はおしまいだとなかばあきらめた思いが、心をかすめました。しかし、子豚だけは無事だったのでできる限りのことをしてあげようと思い、ミルクや水を与えてやりました。その作業は眠れるか眠れないかのような状態で働き続けました。
水が引けた水害の後は、まるで地獄絵のようでした。木の根っこに死んだ豚の足が絡まっていたり、首が紐にかかって宙ぶらりんになったりしていたので、長い間愛情をかけて飼育してきたことを考えると、心が痛みました。経済連の人や長野市の養豚を営む仲間にきてもらい、死んだ豚の後かたづけに追われました。それは本当に悲しい作業でした。
自分が悪いわけでもないのに、自然災害には本当に頭を痛めています。前々から堤防の強化を訴えているのに、何もしてくれなかったことにも非常に腹がたちました。ポンプアップで内水排除をして千曲川に水を流し込んだため、川下のほうから水が流れ込んできてしまうことにも憤りを感じました。
自然災害はいつ起こるかわかりませんが、今は月へも行ける時代なのだから、台風が発生して間もないうちに台風を破壊することができればいいのにと思います。水害を体験して、困った時に助けてくれた仲間のありがたさが痛切に感じました。農協や共済組合の人もみな助けてくれたり、自衛隊の人たちもきてくれて、災害復興に努めてくれました。本当にありがたかったです。生き物を飼育するということは、自然ともうまくつきあっていかなければなりません。二度とこのような災害が起こらないことを願います。
教訓
伝えたいこと
水害にあった者として、次の世代にもその経験を伝えていくことは大切な役目。
◆水害の時に助けてもらった仲間のありがたさ。災害に備えた心構えが必要。
素直に海へ流れる河川整備が必要
下水内郡豊田村C.Mさん(当時65歳)
私の家は飯山線「替佐駅」のすぐそばにあり、千曲川が流れる豊かな自然のなかでお米とりんごをつくる兼業農家です。近くには村の施設や商店もあって、暮らしにはとても便利でしたが、わが家は周囲より少し地盤が低いことから、昔から大雨が降って千曲川が増水するたびに水害にあってきました。
なかでも被害が大きかったのは、昭和34年台風7号の床上35cm浸水、次に昭和57年台風18号の床上45cm浸水、翌昭和58年台風10号の床上85cm浸水の3回です。
昭和58年は豊田村全体で64世帯が床上浸水、45世帯が床下浸水になったそうですが、わが家もこの年がこれまでで最も被害が大きかったと記憶しています。
大雨になるといつも親戚や消防団の方が心配して駆けつけ、自宅の家財道具から物置きの農機具や穀物まで、あらゆるモノを外へ運び出してくれます。昭和58年も「これは危険だ!」といって、大急ぎで近所の親戚の家に運び込みました。しかしその親戚も次第に危険になって次は体育館へ。たった一度でも大騒ぎなのに、それをほんの数時間のうちに2度も行ったのです。
そのうえ、丹精込めて育てたりんごは根こそぎ、稲刈りを終えて「はぜかけ」しておいた稲もすべて流されてしまいました。それはもう「残酷」の二文字以外の何ものでもありません。私は「もうここには住めない」と思いガックリしました。
家に押し寄せた水は数時間後、魔法でもかけたように、サァッと一気に引けました。それが後になって下流の飯山常盤堤防の破堤によるのが原因と聞いて、身が震える思いがしました。同地区へは鉄砲水が押し寄せ、家畜が大量に水死する大被害を受けたというのです。わが家の水が引けたからと安易に喜ぶわけにはいきません。そして「水は上から下へ、そしてどんなに重い物でも押し流してしまう、恐ろしい力を持っている、素直に海へ流れる河川の確保が必要」と強く思いました。
昭和60年、当時まだ健在だった夫が「息子の代になってまで水に泣かされるのは不憫」と、われわれ家族は隣り村へ家を建て、引っ越すことに一大決心。その後長男は結婚し、今は孫たちと仲良く暮らしています。しかし大雨が降るたびに、そわそわ心配になったり、洪水のニュースを聞くたびに、被害者の気持ちがよくわかるだけに、いたたまれない気持ちになります。
私は3度の浸水を経験して、いざというときすぐに荷物を出したり避難できるように、普段使わない食器はまとめて箱にしまっておくことや、貴重品と位牌はすぐに持ち出せるようにしておくこと、また災害時はともかく必要になる現金をしっかり備えておくことが習慣になってしまいました。
教訓
伝えたいこと
水はどんなに重い物でも押し流してしまうおそろしい力を持っている。
◆すぐに荷物を出したり、避難できるように備えておく。災害時は、ともかく現金が必要になる。
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