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更新日:2021年11月29日
(4)豪雪・雪崩(昭和36年2月16日)
被害地域
下水内郡栄村
被害状況
人的被害(人):死者11/負傷3
住家被害(棟):全壊4/半壊1
雪崩では未曾有の大惨事
下水内郡栄村Y.Sさん(当時29歳・役場職員)
ずっしーん!いまから41年前、栄村青倉で発生した大雪崩は住宅4棟を全壊させ、半壊1棟の被害をもたらしました。死者11人、軽傷者3人というものすごい規模でした。その瞬間、こんな物音が響いたそうです。
私はその頃、役場職員で税務を担当していました。いま、役場に残っているのは現村長や助役ぐらい。当時を知る人は、もういなくなってしまった。あのとき、大雪のために国鉄飯山線が不通となり、除雪態勢が現在のようではなく、降れば降りっぱなし。雪崩の発生した前日、私たち税務担当者3人は、上田市にあったタバコ生産工場を視察に出かけていました。飯山まで帰ってくると、同線は不通。緊急事態です。このため、出張していた村長も、国鉄に頼んで客車ではなく機関車を出動させてもらい役場に帰りましたが、私たちは飯山に一泊して翌日、三十数キロを10時間もかけて歩いて帰宅しました。
夕方6時頃、雪崩のあった集落を通過したのですが、そのときは各家庭の屋根はすでに雪堀も済み、きれいになっていました。そして、入口もちゃんと玄関に降りられるように階段が刻んでありました。ところが、夜になって“抜けた”んです、雪崩が起きたんです。火事など、危急を知らせるための小さな釣鐘、半鐘が鳴りました。だが、家々の周囲には雪の壁ができており、窓も締め切ってあったために「ジャン、ジャン」と鳴る早鐘が聞こえない人が多かった。翌日、雪踏みに出たら、大勢の人が騒いでいるのを見て、「何かあったのか」と、尋ねる人もいました。有線放送もまだない時代で、電話は地主のお宅に1台、村の共同で使う電話が1台あるだけでした。それでも、各地から雪崩を知って駆けつけた人たちがスコップによる懸命の救助作業で、家屋のぐししか見えない雪の下敷きになった中から10人を救出しました。結局は11人というかけがえのない人命が失われたのです。
このあたりは豪雪地帯で、昭和20年2月12日には7m85cmを記録して(飯山線の森宮野原保線区調べ)、観測史上の最高積雪となりました。昭和36年も、例年にない大雪の年でした。1月末には3mを超す積雪でしたが、2月に入ると雪も降りやみ、雨の日もあって雪面は凍み渡りができるほどの春のような陽気でした。2月8日から再び寒気が入り、10日頃から断続的な雪降り。さらに、11日からはすごい寒波が襲来して、昼夜を問わず3日間降り続きました。そして、ついに2月16日午後8時頃、上部の雪庇(せっぴ)崩落をきっかけに一気に大量の新雪が滑り落ちたのです。そのとき、瞬間的に「ずっしーん!」と発したのでしょう。何か、雪を掘り残したのが落下したのかと思った人もいたようです。
地球の温暖化など、最近の天気は様子がおかしい。雪が降る時は降って、寒い時は寒く、暑い時は暑いのが自然。ところが、人間の手が山の中にまで入って開発。イノシシが街の中にまで出てきて走っているといった話題が新聞をにぎわしています。困ったものだという思いもあります。現在、青倉には雪崩防止柵もでき、「雪崩殉難供養塔」も建立されています。どこにも訴える先がない悔しさの残る自然災害でした。亡くなった方々のご冥福を祈るばかりです。
教訓
伝えたいこと
気象の急激な変化に注意して災害を防ぐ。
気象災害には細心の注意を
下水内郡栄村H.Tさん(当時33歳・役場職員)
「パシッ!」。昭和36年2月16日夜8時過ぎ、突然わが家の電気が消えてしまった。いつまでたっても電気はつきません。表に出てみたら、私の住む同じ青倉集落で「雪崩が出たようだ」という話です。有線放送も無かった頃で、そのうちに雪崩のことがだんだん伝わってきて現場に行ってみると、不思議なことに4軒あった家屋が跡形もない。気象災害の恐ろしさを実感しました。
当時、私は栄村の広報ともいうべき「栄村公民館報」の担当主事で、館報を書いていました。雪崩のあった日は雪が降っており、夕方6時か7時には帰宅して夕食をすませたところ、停電。機械力も道路の除雪なども無い頃です。かんじきで雪を踏み固めて歩いていた頃で、鈴木牧之(江戸時代の文人で、越後国魚沼郡の在郷商人の家に生まれ、雪国の生活を活写した『北越雪譜』を著す)が生きていた頃と同じような時代でした。消防団員はみんな歩きで、スコップを使いながら、雪に埋まった人たちを夜8時から翌朝まで徹夜で救助しましたが、11人が死亡する惨事となったのです。
生きている者も死んだ人も、人間は雪崩の一番下に埋まっている。多くの死者が出るなかで、一人で雪の中からはい出した人がいました。その人は大工さんで、“抜け道”を知っていたのでしょう。何でも父親と2人で将棋をさしていたところへ、雪崩に襲われた。父親は梁で頭をやられて死亡。奥さんも2階で亡くなりました。
高さが100m足らずの山で起きた雪崩でしたが、ここは雪崩の常習地で、青年団の若者たちが「危ない」と、奉仕活動で山の峰のほうに向かって防止のために段切りをしていた場所です。しかし、その段切りは全然、雪崩には役立たなかったのです。最初は「なぜ、段切りが有効ではなかったのか」がわからなかった。そこで、雪崩発生のメカニズムについては、当時の国鉄塩沢雪実験所(新潟県)が詳しいというので、荘田博士を招へいして、飯山市公民館で「雪崩の科学」の講演を聞きました。その要旨は当時の公民館報にも掲載してあります。
この地方では寒明け、節分が過ぎると、猛烈に雪が降ります。例年、雪のピークは2月15日頃。大雪崩のあった16日は、珍しく雨が降りました。雪の表面は水分がたっぷり。そこへ気温が下がって湿った雪が全部凍ってしまい、その上に物すごい雪が積もり、一挙に滑り落ちたのでしょう。それはまるでジャンプ台の上からスキー選手が滑る時と同じようなものです。そういう気象条件でした。あのときの雪崩は雪庇が問題と判明したため、講演会の後、林務課が山の峰、頂上に鉄製の柵をつくりました。以来、雪崩は起きていません。
青倉坂を襲った雪崩は、雪害ではかつてない大惨事でした。
教訓
伝えたいこと
防災対策を講じていても、気象状況の変化には細心の注意を。
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