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更新日:2024年4月1日

信州の歴史 近現代

 

近現代
~産業発展と近代国家~

 


生糸商標
(複製 現品は片倉工業(株)蔵)
 幕末の開港は長野県の地域経済を世界につなげる契機となります。とくに、銀色の光沢を放つ生糸は、人びとの視野を国内から海外へまで広げる大きな役割を果たしました。県歌『信濃の国』にも蚕からとれる細い糸が「国の命をつなぐなり」とうたわれています。
 長野県は外国との交流が始まると、いち早く器械製糸を取り入れ、養蚕や蚕種業の技術開発や改良に力を入れたため、日本一の「蚕糸王国」となります。長野県の近代のあゆみは養蚕や製糸業の盛衰と深いかかわりがあり、長野県のあゆみそのものといっても過言ではありません。
 

 


片倉組事務所
(長野県立歴史館展示)
 片倉組に代表されるように、長野県の製糸業は県外や外国にまで進出し、わが国の製糸の中心となります。
 県内のいたるところの農家では養蚕が営まれ、蚕を「お蚕さま」とよんで大切に育てました。蚕は病気に弱く、えさの桑も気象災害を受けやすかったので、養蚕は年によって当たりはずれがありました。養蚕のできぐあいは、養蚕農家の生活を左右しました。
 蚕糸業は大正時代から昭和初年にかけて全盛期を迎えますが、1929年(昭和4)からの世界大恐慌の影響をうけ、製糸業は倒産、繭価の大暴落のため養蚕農家も大打撃をうけます。不況から抜け出すため、県は満州(中国東北区)移民を積極的にすすめ、全国一の送出県になります。
 長野県の蚕糸業を発展させた要因に、蚕業教育の充実をあげることができます。小県蚕業学校(現在の上田東高校)や上田蚕糸専門学校(現在の信大繊維学部)は全国にさきがけて開校されます。
 いっぽうで、製糸業の発展は工女たちの労働・賃金・生活条件などの問題をうみだし、改善を求めた運動もおこります。

 

 







「ヤシカ35」 1号機
(長野県立歴史館蔵)







開通した長野新幹線


 

              ~戦後の信州・長野県~


 1945年(昭和20)、終戦を機に、日本は民主主義の国として再出発します。戦争による荒廃のなかから、新しい社会を創造する動きが、県下各地でもはじまります。
 1946年(昭和21)、女性が参政権を得た最初の普通選がおこなわれ、長野県ではトップ当選で女性代議士が誕生します。翌年には初の民選知事に林虎雄が選ばれます。
 教育では六三制の学制改革がおこなわれます。中学校の新設、小学校の増改築、学校給食の実施など市町村の財政負担は大きくなります。しかし、県民の新教育によせる期待にこたえ、教育環境も整えられていきます。




 1960年代にはじまる高度経済成長によって、県下でも商工業が飛躍的に発展します。長野県は戦前から養蚕・製糸業に代えて精密機械工業へと産業育成の重点をうつしていましたが、戦後の長野県は「工業立県」の目標を掲げ、工業課を新設し、工場誘致条例を制定するなど、工業化政策を進めます。かつて長野県製糸業の中心であった岡谷・諏訪地方は、精密機械工業の中心地として発展し、「東洋のスイス」と呼ばれるようになっていきます。
 農山村では農業基盤整備や機械化がおこなわれましたが、都市部への人口流出により過疎化も進みました。また産業の発展は一方で自然破壊や環境汚染をもたらしました。
 山や谷で地域が分断されている長野県にとって、交通網の整備は大きな課題でした。高速自動車道や新幹線などの開通は、県内のみでなく東京など県外各地との交流にも大きな変化をもたらします。
 

お問い合わせ

県民文化部文化振興課

電話番号:026-235-7282

ファックス:026-235-7284

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